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  • 2007.09.25 Tuesday
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曜変の光に魅了され 謎の制作方法、挑む陶芸家たち

 漆黒の釉(ゆう)面に大小の斑文が青い光彩をともなって浮かびあがる。曜変天目茶碗(ちゃわん)。光と見る角度でがらりと変わる神秘的な表情は人々をとらえて離さない。制作方法は全くの謎で、多くの日本の陶芸家が、その妖(あや)しい小宇宙に迫ろうと心血を注いできた。近年では、国内外で評価される逸品が次々と生まれ始めている。

◆中国の土輸入して試作

 東京都世田谷区の静嘉堂文庫美術館には、800年ほど前の中国・宋の時代に焼かれ、日本にしかないと言われる三つの曜変天目茶碗の中で、最も華麗な「稲葉天目」(国宝)が所蔵されている。この春に亡くなった米山寅太郎館長は曜変を目指す陶芸家たちを半世紀以上見守ってきた。

 愛知県瀬戸市の長江惣吉さん(44)もその一人。「(曜変の)光の中に自分自身が入っていられたら」と語った父に続き、追い求めてきた。

 「のめり込む父と、働きづめの母の苦労を見てきたから継ぐ気はまったくなかったが、私が33歳の時に父が脳梗塞(こうそく)で倒れ、覚悟を決めたんです」と長江さん。「同じ土、同じ条件で焼かなければ意味がない」と、曜変が焼かれたと言われる中国福建省の建窯跡地を30回近く調査し、40トンの土を2回、釉薬のための石を5トン輸入して試作を重ねた。

 全長10メートルの窯で、1回の焼成に二晩。一睡もできない作業で、体力的にも年に2、3回が限度という。

 岐阜県土岐市で創作を続ける林恭助さん(44)も静嘉堂に通い、研究を続けてきた。建窯近くの土を使いながら、コンピューター制御できる窯を使用し、5年前に曜変の初個展を東京で開いた。

 今年3月には北京の中国美術館で個展があり、中国の研究者も出来栄えを称賛した。異例なことに、今月末にも北京の故宮博物院に作品が収蔵される予定だ。

 瀬戸や美濃など古くからのやきものの産地では「曜変に手を出したら身上をつぶす」と警戒もされるが、追う者は後を絶たない。

◆100回焼いて満足2碗

 京都府宇治市で茶陶を焼く桶谷寧さん(39)も、そのいばらの道を歩む一人。思索と試行の末、建窯にはこだわらず、100碗程度を炭で囲み、泥をかぶせて火を入れる方法に行き着いた。毎日のように焼き、経験を蓄積しながら、満足できるのは100回焼いてもせいぜい2碗。ほかはすべて割ってしまう。

 陶芸の家に生まれたのではなく奮闘しているのは神奈川県中井町の瀬戸毅己さん(48)。横浜・中華街で17年前に中国の論文を手に入れて以来、「自分だけの曜変」を目指している。

 アールヌーボーのガラス工芸家、エミール・ガレの技術も援用。「収入につながらなくて苦しい。でもしょうがない。ドン・キホーテのような気分です」

 長年の推理と実作で得た究極のノウハウについては口を閉ざしつつも、着実に曜変に近づいていく現代作家たち。その成果は、多くの優れた先人が積み重ねた器の上に成り立っている。

 悲劇もあった。久田重義さんは、日本伝統工芸展で2回受賞するなど高い技術で知られる愛知県常滑市の陶芸家だった。元旦以外は朝から曜変を焼き続け、斑文の周りに青い光彩が美しく光ると「だんだん近づいてきたね」と妻のゆき枝さんに語りかけた。しかし6年前、個展を間近に自ら命を絶った。周囲は、曜変というあまりに高い壁を思ったという。

 なぜ陶芸家たちは、このあまりに高い壁に魅せられ、挑んでゆくのか。

 京都の桶谷さんは「曜変は世界に残された神秘性の最後の砦(とりで)。知人や妻の支援でなんとか焼き続けている。もう、宿命」と話す。

 曜変には、類似作も残っていないし、手に取ることすら、ほとんど不可能。壁というより、夜の天空でひときわ輝く星か。陶然とならざるをえない奇跡の美は、陶芸家たちを迷わせ、駆り立ててもきた。ただ己の眼力と腕だけが頼りなのだ。

 東京国立近代美術館の唐沢昌宏主任研究員はさらに、「鑑賞する側も、世界の至宝である静嘉堂の曜変が頭に焼き付いているから新しい表現を受け入れるのは難しい」と、もう一つの壁を指摘する。

 「でも陶芸家には、その壁を越えて、ぜひ、独自の形と美にも取り組んでほしい」と「さらに先」への期待も寄せている。


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住友コレクション 日本の近代陶芸 東西作家の競宴


― 展覧会から ―

2007年06月10日

 7月1日(日)まで、京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町の泉屋博古館で開催中。問い合わせは 075−771−6411、ホームページhttp://www.sen−oku.or.jp

重要文化財 葆光彩磁珍果文花瓶(板谷波山、1917年)
彩磁更紗花鳥文花瓶(板谷波山、1919年)
藤花絵菊花形共蓋花瓶(宮川香山、明治)
白磁桜華文花瓶(3代清風与平、明治〜大正)
古代模様細口耳付花瓶(初代伊東陶山、1910年)
鴛鴦置物(5代清水六兵衛、昭和)

 優れた中国古代青銅器の収蔵で名高い泉屋博古館。コレクションを作り上げた住友家15代吉左衞門春翠(1864−1926)は、近代美術のパトロンとしても知られています。泉屋博古館学芸員の外山潔さんによると、春翠は明治の元勲で欧州留学の経験もあった実兄西園寺公望(1849−1940)の勧めで、フランスから帰国したばかりの洋画家黒田清輝(1866−1924)の代表作「朝牀」を、明治28(1895)年に購入。その後も制作費を援助したほか、パリ留学中の鹿子木孟郎(1874−1941)や関西美術院を主宰する浅井忠(1856−1907)らを支援し、作品も買い上げました。残念ながらその多くは、須磨別邸と共に、第二次大戦の空襲で消失したそうです。

洋画家との付き合いと比較すると、陶芸家との交流の実態は、ほとんど分かっていません。住友家には、明治中期以降に春翠らが集めたと思われる近代陶芸作品が数多く残され、それらは現在、東京の泉屋博古館分館が管理しています。昨年春に同分館が開催した「近代陶磁器にみる東と西」展の出品作品などから、17作家の約50点を選び、関東を拠点に活動した5名と京焼の12名を対比しつつ再構成した展覧会です。


 関東勢を代表するのは、やはり板谷波山(1872−1963)と初代宮川香山(1842−1916)でしょう。波山の最高傑作の一つとされる葆光彩磁珍果文花瓶(高51cm)は、香山作の褐釉蟹貼付台付鉢(東京国立博物館蔵、この展覧会には出品されていません)と共に2002年、近現代の陶芸作品としては初めて、重要文化財に指定されました。艶のない独特の葆光釉を施したこの花瓶は、大正6(1917)年、第57回日本美術協会展での一等金牌受賞作。出光美術館所蔵の「大作花瓶類図集」に自筆スケッチが含まれており、「大坂住友男爵家ヘ売却ス 価格壱千八百円」の書き込みから、購入価格も分かります。今回の展覧会には、彦根更紗の地に尾長鳥を配した大正8年制作の彩磁更紗花鳥文花瓶(高39cm)、同4年の農商務省第三回図案及応用作品展覧会で二等賞を得た葆光彩磁葡萄唐草文花瓶など、代表作を含む波山作品6点が展示されていますが、ともに大正年間の作。春翠との交流を物語るエピソードは、茨城県が昭和42(1967)年に編集、発行した『板谷波山伝』に、僅かに紹介されています。あるとき波山は上京した春翠を訪ね、立派な人柄に感心はしたものの、取り巻き連中がオベンチャラを言うのに辟易して、自然に縁遠くなった、と言うのです。極貧の暮らしの中でも誇りを失わなかった、潔癖な波山の性格をクローズアップする趣旨の文脈中で語られた挿話ですが、典拠が明示されていないため、真偽は確認できません。


 宮川香山は、明治から大正初期までの13作品が展示されています。香山は代々、京都・真葛原で楽焼を専門としていた茶碗屋長兵衛こと真葛長造(1797−1868)の4男に生まれました。父が亡くなったあと、明治4(1871)年に横浜へ移住。輸出向け陶磁器を作って欲しいとの、薩摩藩御用商の頼みを受けての横浜行きだったそうです。ウィーン(1873)、フィラデルフィア(1876)、パリ(1878、89、1900)、シドニー(1879)、メルボルン(1880)、アムステルダム(1883)、セントルイス(1904)の万博をはじめとする内外の展覧会で受賞を重ね、名声を高めました。重文の蟹台鉢に代表される細工物や輸出向け主力商品だった豪華な薩摩焼風色絵金銀彩陶器を手始めに、西欧の新技術を導入して完成した色釉を駆使した洋紅と呼ぶ一群の清朝風磁器まで、作風は実に多彩。紹介される機会がそう多いとは言えない香山の実像を知るチャンスでしょう。なかでも藤花絵菊花形共蓋壺(高24.3cm)の清雅な美しさは格別です。NPO法人アート・インタラクティヴ東京理事長で東京国立近代美術館主任研究官だった樋田豊次郎さんは、1989年11月に横浜高島屋で開催された「みなと横浜が育てた真葛焼」展の図録で、この壺の制作を明治中期としています。


 京都勢の作品はスケールでは波山、香山には及ばないものの、雅な造形や絵付けに伝統の味わいを感じさせます。明治43(1910)年、伊東陶山(1846−1920)作の古代模様細口耳付花瓶(高21.8cm)は、染織と銅器の文様、造形の応用でしょうか。陶山は粟田焼の改良者としても知られています。3代清風与平(1851−1914)も内外の展覧会で受賞を重ねた人物。輸出の主力だった京薩摩風の絢爛豪華な作には無関心で、中国陶磁に学び、上絵付よりも本焼きによるシンプルな表現を目指しました。宋代定窯の趣を感じさせる桜華文花瓶(高21.8cm)に、そうした特色が表れています。5代清水六兵衛(1875−1959)は波山と並ぶ帝展、文展の代表作家。鴛鴦置物(高11.4cm)は愛らしい色絵の小品。これは昭和の作のようですから、歌人でもあった16代住友吉左衞門(1909−93)時代の蔵品でしょう。


 ほかに関東勢では井上良斎や波山の妻子、京都勢は14、15代永楽善五郎、4代高橋道八、沢田宗山、河井寛次郎、楠部彌弌らの作も展示されています。波山や香山に展覧会向きの大作、代表作が目立つのに対し、京都勢の作品は揃いの向付や茶碗などの食器も含んでいます。東西で収集方針が幾分異なるようにも思われますが、個々の制作年や住友家との交流、蔵品となった経緯などがはっきりしないため、確認出来なかったのが心残りです。

明治23(1890)年から昭和19(1944)年までに任命された帝室技芸員79名中、陶芸作家は3代清風与平(1893年任命)、初代宮川香山(1896)、伊東陶山(1917)、諏訪蘇山(1852−1922、任命同)、板谷波山(1934)の計5名。このうち蘇山を除く4名の作が見られるのも、この展覧会の楽しみの一つでしょう。


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タヌキの多彩な魅力語り合う


甲賀・陶芸の森で全国フォーラム

信楽焼のタヌキの置物も並べられた会場で話し合う「たぬきフォーラム」の参加者(甲賀市・県立陶芸の森)
 「全国たぬきフォーラムinしがらき」(しがらき狸(たぬき)学会、日本たぬき学会主催)が26日、滋賀県甲賀市信楽町の県立陶芸の森信楽産業展示館大ホールであり、全国のタヌキファンらがタヌキの魅力や日本人との関係について語り合った。

 同陶芸の森で開催中の特別展「ようこそ!たぬき御殿へ」(京都新聞社など主催、6月3日まで)に合わせて開催。陶芸の森主任学芸員の大槻倫子さん、愛媛県松山市でたぬきサロンを主宰する山岡堯さん、兵庫県立大教授で日本たぬき学会会長の池田啓さんが、しがらき狸学会の大平正道会長の司会でパネルディスカッションした。

 大槻さんは特別展を企画して思ったこととして「タヌキって日本人そのもの。人をだましたり、腹づつみを打ったりと、やりたいと思っていることをタヌキがやってくれているのでは」と指摘。山岡さんは四国に多く残るタヌキ伝説や信仰について触れ「タヌキは人間と自然の境目にいて、人間と自然を結びつけてくれている」と話した。

 豊岡市の「コウノトリの郷公園」研究部長でもある池田さんは「日本人は生物のタヌキはほとんど知らず、実は私もタヌキはこういうものだと一言では言えない。時代時代で好きなように形が変えられ、それが一番の魅力では」と話した。

 フォーラムは「金袋はなぜ大きく描かれるのか」「なぜ人をばかすのか」といった話が展開し、会場を訪れた人は興味深く聞き入っていた。イタリア人大学生のリッカルド・ベッルッチさんは「タヌキがだましたりする話はイタリアの昔話とは違い、とても面白い」と話していた。フォーラムの行事として27日には午前10時半から「第1回全国たぬき人間コンテスト」が開かれる。


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小さきもの みな 美し

― 展覧会から ―

2007年05月27日

 6月10日(日)まで、滋賀県甲賀市信楽町のMIHO MUSEUMで開催中。問い合わせはTel 0748−82−3411、http://miho.jp

豹を背負う女性像(紀元前12世紀ごろ、エジプト)
乾山オランダ写市松文猪口(18世紀、尾形乾山作)、越田悟全撮影
備前瓢形徳利 銘くくり猿(17世紀、益田鈍翁旧蔵)
水滴(8―12世紀)
万暦赤絵小丸香合(16−17世紀、中国)

 五胡十六国時代から北朝、隋までの石造仏や金銅仏を集めた展覧会「中国・山東省の仏像」(6月10日まで開催)で賑わうMIHO MUSEUM。北館の一角で、創立者小山美秀子さん(1910−2003)が集めた、可愛らしい小品ばかりの展観が、ひっそりと開かれていました。これも開館10周年を記念する特別展。小山さんは堂々たる名品の収集で有名ですが、小さな品も大好きだったようです。好みやセンスの良し悪しは、見所のある小物の集め方に端的に表れます。絵画や染織、漆器、金属器も含めた内外の120余点から、古美術を愛しむ、厳しい眼を感じました。


 古代エジプトのファイアンス、豹を背負う女性像(紀元前12世紀ごろ、高7.8cm)は、6年前にMIHO MUSEUMで開催された古代ガラス展でお目見えし、特異で魅力的な造形に注目が集まりました。豹の重みに耐えつつ、一途な面持ちで歩む、前屈みの女性。ひと目で尋常ならざる人物と見て取れます。一体、何者なのか。着衣に見られる豹と同じ褐色の斑点から、文字と測量の女神セシャト(Seshat)との見方が有力。豹の毛皮を纏(まと)って王の儀式を手助けする姿などが、神殿の浮き彫りで残っているそうですが、担いだ像は他に知られておらず、意味は分かっていません。93年7月3日、ロンドン・クリスティーズでのテル・ネブ(Ter−neb)・コレクション売り立てで、古美術商の堀内紀良さん(1944―)が落札。小山さんが収集に加えた品だそうです。ファイアンスとは、外見はガラスに似ていますが、れっきとしたやきものの一種。岩石や砂漠の砂に含まれる石英や貝殻などの酸化カルシウム、植物の灰などのカリウム等々、ガラスとほぼ同じ成分を練り合わせて成形し、乾燥、焼成します。溶かした原料から直接成形するガラスとは、作り方が違うのです。


 堀内さんは、MIHOのコレクション形成に重要な役割を果たした人物。小山さんは、熱海のMOA美術館の基礎を作った世界救世教の創始者岡田茂吉氏(1882―1955)の下で学び、岡田氏が亡くなったあと、独立して神慈秀明会を組織しました。堀内さんはある時、往時を知る美術関係者からこう言われたそうです。「秀明会主の小山さんは女性だが強い人で、目も確か。度胸もあるから、あなたと気が合うかも知れない。一度会ってみるといい」


 それから13年が過ぎた91年初頭に小山さんから堀内さんに突然連絡があり、こう告げられたそうです。美術館を建てる積りで、I.M.ペイ氏に設計を頼んだら、国際的にも第一級の施設にするなら引き受けましょうと、条件が付いた。そのために世界の一流品集めに協力して欲しい、と。ペイ氏は、ルーブル美術館新館のピラミッドや、ワシントン・ナショナルギャラリー東館の設計で知られる世界的建築家です。


 協力を約すに際して、堀内さんが求めた条件がふるっています。収集過程で真贋の間違いが起きたら、自分が責任を取るので、あらかじめそれを了解して欲しい、と言うのです。「いいでしょう」のひと言で話し合い成立。小山さんの懐の深さを示すエピソードでしょう。堀内さんは小山さんと長女弘子さん(1940―)を伴い、その後6年近くにわたって年3―4回ずつ、作品探しでアメリカやヨーロッパなどに出向いたそうです。


 小山さんは全く外国語を話しませんでしたが、態度に不思議な威厳があり、メトロポリタンなど著名な美術館の学芸員らからも、自然に一目置かれたそうです。直感が鋭く、知識よりも感覚で即決するタイプ。堀内さんの薦めに、「ああきれいだねえ」の返事が、購入OKの意味だったそうです。僅かな期間で、エジプトからメソポタミア、中国美術と、文字通り世界を股に掛けての名品探し。当然、真贋を巡る際どい局面もあったようですが、堀内さんへの信頼は揺るがなかったそうです。「最初に、私の気持ちを正直に伝えたら、分かってもらえました。普通のコレクターとの関係では、まずあり得ない話です」と堀内さん。余人には測りがたい、不思議な絆と言うべきかも知れません。


 海外に出掛ける以前から、小山さんは瀬津伊之助、藪本荘四郎氏ら名だたる美術商と親交があり、約40年にわたって、茶道具や仏教関連の日本美術などを収集していました。東大寺管長だった上司海雲(1906―75)や、染色工芸家芹沢●介(1895―1984)、画家の須田剋太(1906―90) 、写真家入江泰吉(1905―92)ら親しい文化人とも、しばしば骨董談義を楽しんだそうです。


 乾山オランダ写市松文猪口(18世紀、高4.5cm)も、あるいはそんな交流の中で出合った品でしょうか。初代尾形乾山(1663―1743)は革新的な京焼の陶工として有名ですが、これは恐らく二代(生没年不詳)の作でしょう。陶胎で、口縁には淡く黄色が塗ってあります。器底には、鉄絵具の「乾山」銘と花押(かおう)。箱蓋表に「延享二(1745)年 亀江戸 乾山角猪口 枚弐拾」の年記。これは初代が没して2年後に当たります。オランダ写しとあるからには、本歌はデルフト焼のはずです。17世紀末のデルフトとされる大和文華館所蔵、藍絵石畳文鉢を思い起こす方もあるかも知れません。ところがオランダでのこの手の遺例はほぼ皆無らしく、日本からの特注品だった可能性が考えられます。さらに面倒なのは、景徳鎮で明代天啓(1621―27)、崇禎(1628―44)年間に作られた古染付の湯呑や、1640―50年ごろの伊万里手塩皿などにも、同じ文様が登場するのです。古染付の多くが、日本からの注文品だったのは、周知の事実。本歌の本歌は、はたして日中蘭のいずれなのか。厄介なこの問題はひとまず置くとして、この猪口が、群を抜いて瀟洒で、美しいのは間違いありません。


 鈍翁益田孝(1848―1938)旧蔵の備前瓢形徳利 銘くくり猿(17世紀、高11.9cm)の破格な造形には、桃山の雰囲気が感じられます。瀬津伊之助氏の次男で東京・日本橋の瀬津雅陶堂店主だった巌氏(1937―2000)を通じて、1980年にコレクションに加わった品。ひょうげた味わいは独特で、練達の陶工の手になった稀な品に違いありません。箱の銘「くく里猿」が、鈍翁自身の命名か否かは不明。猿回しのサルがうずくまる姿、あるいは京都・八坂庚申堂などのお守り人形からの連想かも知れません。


 平安時代の水滴(8―12世紀、高6.5cm)を、ガラスケース越しに見た愛知県陶磁資料館の井上喜久男・学芸課長は、9世紀半ばから後半に猿投窯で焼かれた燻べ焼きしていない白地の瓷器(しき)ではないか、と印象を語ってくれました。猿投の器に注口が見られるのは、9世紀前半まで。背が低く、下膨れのふっくらした器形はこれよりやや後の時代の特徴で、両者の中間の時期を考えざるを得ないのだそうです。注口は、多面体状に平たく面取りされています。これは晩唐から五代にかけての越州窯や長沙窯の水注などによくある形。類例のない、可憐な器と言うほかありません。筆者は、比叡山の経塚から景徳鎮製の青白磁合子とともに出土したとされる、11世紀のガラス注器を思い浮かべました。


 器面いっぱいに呉須で、皇帝の象徴とされる五爪の龍を描いた万暦赤絵小丸香合(16―17世紀、径3.3cm)も、まさしく珍品。似た品を見た記憶がありません。呉須で記した「大明萬暦年製」の底銘からも、官窯作と分かります。上絵の赤、黄、緑の発色も見事です。どのような経緯で日本に伝わったのか、興味は尽きません。


 一巡して特に目に付いた品に限って紹介しましたが、小山さんの小品コレクションには、類のない、美しい品々が、まだまだ隠れていそうです。いつまでも眺めていたい思いを残して、会場を去りました。


●=金へんに圭



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ようこそ たぬき御殿へ

― 展覧会から ―

2007年04月29日

6月3日(日)まで、甲賀市信楽町の滋賀県立陶芸の森 陶芸館で開催中。問い合わせは0748―83―0909、ホームページhttp:/www.sccp.jp/

狸置物(信楽・古仙堂作、大正末―昭和前期)
土灰青磁狸置物(萩・6代三輪喜楽作、江戸後期)
手捻狸鈕山水文急須(四日市萬古・初代小川半助作、明治初期)
楽焼狸手焙(石黒宗麿作、大正末)
酒買狸(京都清水・今井狸庵作、昭和前期)
狸置物(常滑・松下福一作、大正ー昭和初期、常滑市民俗資料館蔵)
    ◇

 京都から東海道線の普通列車で東へ10分余り。JR石山駅で下車。帝産バスに乗り換えて、約1時間で信楽町。道路沿いにズラリと並んだやきもの屋の店頭から、巨大なたぬきがこちらを睨んでいます。小首をかしげ、右手に大徳利。左手には、ツケ買い用の通い帳をぶら下げた愛嬌ある姿。黄色い菅笠に、体が黒。太鼓腹だけは白塗り。どうやらこれが標準的スタイルのようです。そう思って眺めていたら、徳利は左手、通い帳が右手のタイプも。股間には、八畳敷の異名でお馴染みの大フグリがぶらり。今回展示されているやきものたぬき達の中で、大正末から昭和前期に、信楽の古仙堂こと藤原乙次郎が作った狸置物(高122cm)が、街道で出迎えてくれた大たぬきに最も似ていると感じました。この辺りが祖形では、と見当を付けてはみたものの、余り自信はありません。街中がたぬきだらけ。とにかく数が多過ぎます。


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革新続ける作陶記録──人間国宝・伊勢?淳の映画

 伝統工芸や伝統芸能の顕彰に取り組む財団法人、ポーラ伝統文化振興財団(東京)が備前焼の人間国宝、伊勢?淳(71)の作陶の挑戦を描いた記録映画を製作、4月に大阪で上映会と、備前の今と未来を語り合う催しを開く。「伝統は尊重すべきだが、継承するだけでは生命力を失う。絶えざる革新が不可欠」と言う伊勢?。伝統とは何かを問い直すユニークな機会になりそうだ。

 記録映画は「備前焼 伊勢?淳の挑戦―伝統と革新のはざまで―」(33分)と題し、備前の歴史の紹介から始まる。

 岡山県備前市伊部(いんべ)の陶芸には約1000年の歴史がある。朝鮮半島から伝わった須恵器が源流とされる。素朴な日用雑器の産地から、桃山時代に千利休などの茶人たちに好まれて華麗な茶陶の産地に変身した。栄枯盛衰があったものの、釉薬(ゆうやく)を使わずに焼き締めるだけの伝統の手法を守り、今でも陶芸家約400人を抱える日本を代表する産地の地位を保つ。

 伝統に安住して活力を失いつつある、と危機感を抱く伊勢?は「古備前と言われる桃山の備前には、他の産地にない独特の造形がある。それを生み出した先人の力を見ると、伝統は革新の積み重ねだと分かる」というのが持論。

 映画は「伝統と革新のはざま」でさまざまな挑戦を続ける伊勢?の姿を追う。

 岡山大学教育学部特設美術科で現代美術を学び、スペインの画家ミロに傾倒。彫刻家のイサム・ノグチや版画家の池田満寿夫らとの交流を通して斬新な造形を追求し始める。その一方で父の陽山と兄の満とともに、桃山時代に全盛を迎えた後、効率的に焼ける「登り窯」に押されて消滅した「穴窯」を復活させた。

 鉄分の多い土を塗って焼き黒く発色させる「黒備前」へのこだわり、現代的な造形を追求する多彩な冒険、他の陶芸産地との交流、若い陶芸作家の指導……。2004年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定され、陶芸の第一人者になった伊勢?の幅広い活動ぶりが映像を通してわかる。

 「陶芸の産地はオリジナリティーを持った作家が絶えず革新を試みて伝統を守ってきた。備前では伊勢?氏がそうした存在」と映画を監修した東京国立近代美術館の金子賢治工芸課長。「この映画は伊勢?氏の活動の背景をなす歴史、造形作家としての思考プロセス、後進の育成ぶりなどを描いており、陶芸に限らず伝統工芸の未来に寄与するはず」と期待する。

 ポーラ財団はポーラ化粧品本舗が創業50周年を迎えた1979年に発足。伝統工芸や伝統芸能を支える人たちに毎年、「伝統文化ポーラ賞」を授与している。伝統文化の継承を狙いに映画の製作に力を入れているほか、文化振興のための助成制度や講演会などの活動にも精力的だ。

 ポーラ財団が映画の上映会と講演会を関西で実施するのは初めて。同財団の真部正明事業部長は「伝統工芸や伝統芸能は関西に圧倒的な厚みがあるが、予算の制約もあって本拠のある東京中心の活動にならざるを得ない。自治体などの協力があれば関西で活動する機会が増えるはず」と語る。
(編集委員 中沢義則)

      ◇

 記録映画の上映会は「伝統文化シネマ上映会―備前は今……」と題して4月13日午後2時から、大阪市中央区のそごう心斎橋本店内のそごう劇場で。上映会のほか、備前をテーマにした討論会や、「日本文化の魅力を探る」という講演会が開かれる。

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丹波焼深く知って 学芸員が窯元案内 陶芸美術館


 篠山市今田町上立杭の兵庫陶芸美術館で20日、「学芸員による丹波焼ガイドツアー」が始まった。初めての試みで、開催中の特別展「TAMBA STYLE-伝統と実験」の一環。市内外の15人が参加し、特別展の鑑賞に加え、学芸員とともに近くの窯元なども訪ね、丹波焼の魅力に触れていた。(小林隆宏)

 ガイドツアーは、丹波焼について、深く知ってもらうのが目的。

 この日は、展示品を見た後、県指定文化財の登り窯を見学したり、丹波立杭陶磁器協同組合の市野晃司理事長の窯を訪れたりした。

 参加者は、学芸員らに「(文化財の)登り窯はいつまで本格的に使用されていたのか」などと質問。

 陶芸が趣味という東京都の男性(59)は「丹波焼の断片的な知識はあったけど、ツアーに参加して全体像が理解できた」と満足そうに話した。

 ツアーは特別展の期間中(三月二日まで)、毎週土曜午後二時から実施。訪ねる窯元は毎回異なる。

 兵庫陶芸美術館TEL079・597・3961

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Tomo Collection 我が心の陶芸


富本憲吉「白磁八角共蓋飾壷」1932年

 2月25日(日)まで、東京・虎ノ門のホテルオークラ近く、菊池寛実記念 智美術館で開催中。1月27日(土)午後3時から菊池智・林屋晴三対談「現代陶芸の魅力 展覧会から」、2月11日(日)午後3時からは乾由明講演「富本憲吉の人と芸術」も。問い合わせは03−5733−5131

    ◇

 美術館の創設者で菊池美術財団理事長の菊池智さん(1923−)が、50年余にわたる自らの収集品から、現代日本の陶芸作家19人の約50点を選んで紹介しています。板谷波山(1872−1963)や北大路魯山人(1883−1959)、加藤唐九郎(1898−1985)ら著名な物故作家から、戦後生まれの秋山陽(1953−)まで。選りすぐった作品ばかりを、米国のデザイナーであるリチャード・モリナロリ氏がデザインした空間に配置した、誠に贅沢な展観です。見終わって、心が洗われるような、清々しい気分が残りました。


 「どんな基準で、コレクションされたのですか」の問いに、菊池さんはこう答えました。「可愛いもの、強いもの、妖しい美しさを備えたもの。このうちの一つでも該当する見所があれば、衝動的に買い求めて来ました。父の目を盗んで、小遣いで集めたような品ばかりですから、たいしたものはございません」
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好きなものと暮らす豊かな生活 造形的な萩焼の作家―2


 ロバート・イエリンさんの日本での暮らしは、日々未知なる文化との遭遇だった。
 程なくやきものに出会い、その魅力にとりつかれると、鑑賞するだけでなく、毎日の暮らしで使ってみたくなった。
 第一歩は日本酒から。徳利やぐい呑みが、生活雑器へと広がり、やがて茶の世界に通じた。
 やきものの歴史や窯の世界を深く知って、暮らしがどれほど楽しくなったことか。
 とっておきの身近なやきものたちを紹介したい。
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「京焼」みやこの意匠と技


11月26日(日)まで京都国立博物館で。075―525―2473

    ◇

 日本の色絵磁器は、17世紀中葉の恐らく1640年代に、中国江西省・景徳鎮の技術を基礎として、佐賀県有田で誕生したと考えられます。相前後する時期に京都でも、野々村仁清作の重要文化財 色絵罌粟文茶壷(いろえけしもんちゃつぼ、高さ42.9cm)に代表される、華麗な京焼陶器が作られていました。磁器と陶器の違いはあるにせよ、遠く隔たった東西2箇所で、ほぼ同時に出現するこの二つの色絵の相互関係をどう捕らえるべきなのか。永年にわたる疑問に、近年の考古学研究がようやく決着を付けたようです。京焼技法のルーツは、景徳鎮とは異なる中国南部福建省の華南三彩(素三彩、交趾三彩・こうちさんさい)である可能性が高いことが、京都市内などから出土する、華南三彩と共通する特徴を備えた17世紀前半の陶片が明らかにしてくれたのです。
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