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「京焼」みやこの意匠と技


11月26日(日)まで京都国立博物館で。075―525―2473

    ◇

 日本の色絵磁器は、17世紀中葉の恐らく1640年代に、中国江西省・景徳鎮の技術を基礎として、佐賀県有田で誕生したと考えられます。相前後する時期に京都でも、野々村仁清作の重要文化財 色絵罌粟文茶壷(いろえけしもんちゃつぼ、高さ42.9cm)に代表される、華麗な京焼陶器が作られていました。磁器と陶器の違いはあるにせよ、遠く隔たった東西2箇所で、ほぼ同時に出現するこの二つの色絵の相互関係をどう捕らえるべきなのか。永年にわたる疑問に、近年の考古学研究がようやく決着を付けたようです。京焼技法のルーツは、景徳鎮とは異なる中国南部福建省の華南三彩(素三彩、交趾三彩・こうちさんさい)である可能性が高いことが、京都市内などから出土する、華南三彩と共通する特徴を備えた17世紀前半の陶片が明らかにしてくれたのです。




 華南三彩は双魚文盤(口径29.5cm、明代・16―17世紀)に見られる通り、緑や黄、紫の色鮮やかなやきものです。類品が伏見城跡や堺環濠都市遺跡などから数多く発見されており、かなりの量が輸入されたと推定されます。樂家の初代長次郎作との伝承を伴う二彩瓜文平鉢(口径33cm)は、長次郎が亡くなった1589年以前に作られたとの確証はないものの、初期の楽焼の特徴を備えており、遅くとも17世紀前半までの作であるのは間違いないでしょう。ともに鉛を媒熔剤とする低火度色釉による発色で、考古学者たちはこれらを含む鉛釉陶を軟質施釉陶器と総称しています。


 展覧会を企画した京都国立博物館の尾野善裕・主任研究員は、京都市内の遺跡のうち、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の南部に隣接する油小路蛸薬師下ル元本能寺町と御池通柳馬場東入ル八幡町の2箇所から出土する軟質施釉陶器に注目しています。ともにここ数年の学校改築に伴う発見。前者の主な発掘品は、寛永年間(1624―44)に廃棄されたと見られる大量の素焼片と鉛釉の掛かった陶片で、その中に小型の窯(内窯あるいは桶窯)の部材が含まれていました。この場所での軟質施釉陶器焼成を示す直接証拠です。後者は17世紀半ばと推定される遺構で、素焼陶片に加えて、釉薬を調合して熔融するための坩堝(るつぼ)や釉下色絵陶片の出土が注目されます。尾野さんによると釉下色絵は、富本憲吉旧蔵の氷裂文角皿(15×15.8cm)など幾つかの尾形乾山(初代、1663―1743)の作以外には、存在が知られていませんでした。この場所は乾山が著書『陶工必用』に押小路焼の生産地と記した「押小路柳馬場ノ東」のすぐ南に位置しており、出土品は押小路焼の遺物と見るのが自然でしょう。ここからは「清閑寺」「京」「岩倉」「音羽」「清水」などの印銘のある陶片も数多く見付かっており、様々な窯の製品に上絵付けしていた可能性が考えられます。


 これらの軟質施釉陶器は、華南三彩と同様、素焼した素地に白土を化粧掛けし、その上から鉛釉を施しています。ともにそれ以前の中世陶器には見られない技で、中国南部からの技術伝播を考える以外に、出現についての合理的な説明は難しいようです。『陶工必用』に押小路焼が「唐人相傳之方」とあるのも、この推論に合致します。


 興味深いことに華南三彩と京都の軟質施釉陶器は、轆轤(ろくろ)の回転方向が正反対です。中国が反時計回りの左回転なのに対して、京都は時計回りの右回転。朝鮮半島やその系統を引く西日本は中国と同じで、京都に先行する同じ右回転の轆轤は瀬戸、美濃にしかありません。尾野さんは京都の軟質施釉陶器は、中国の施釉技術と日本在来の成形技術が融合して成立したと推定しています。


 尾野さんは、仁和寺門前の御室仁清窯跡で採取された「仁清」銘の陶片が、右回転の轆轤で成形されているのは、瀬戸、美濃系の作陶技術の影響を物語ると考えています。同時に採取された窯道具、すなわち降灰などを防ぐサヤ、製品が窯床に熔着するのを防ぐための足付板ドチ、輪ドチなどの支持具も、瀬戸、美濃と共通です。これらは唐津や高取、上野(あがの)、萩、薩摩など朝鮮半島系の技術系譜の窯場でも見られなくはないのですが、3種揃って発見された例は知られていません。同じ窯道具の組み合わせは、初代乾山の鳴滝窯、二代乾山の聖護院窯でも確認されており、『陶工必用』や同じく乾山の著作とされる『陶磁法書』に記された尾張瀬戸→仁清→初代乾山→二代乾山という陶法系譜の正しさを証明していると、尾野さんは考えているようです。ただし京都の色絵の大成者とされる仁清も愛用した金銀彩と赤の発色だけはこの流れでは説明が付かず、たとえば肥前・有田からの技術伝播の可能性を考慮しなければならないのかも知れません。


 京焼の技は他地域へも伝わったようです。例えば沼波弄山(1718―77)の創始とされる萬古焼に関しては、『陶器密法書』写本の奥書から、二代乾山の弟子清吾から弄山が伝書をもらい受けて始めたとする未確認情報が存在しました。平成17(2005)年に朝日町が発掘調査した結果、右回転の轆轤成形、釉下白泥による化粧掛け、素焼工程の存在、京都と同じ3種の窯道具の使用などが確認されました。『陶工必用』や『陶器密法書』の記述の信憑性については古来、様々な論議があったのですが、これまでのところ発掘調査の結果と符合する点が多いようです。


 最近、京都御苑内の公家屋敷跡が発掘され、約200年間にわたる京焼の変遷を跡付ける資料が得られました。それによると高火度焼成された京焼陶片は1650年ごろの位層から出現が始まり、色絵片は1670―1690年のゴミ穴からの出土が確認されました。ただしこれらは廃棄の年代を示す目安ですから、作られたのはもう少し前と考えるべきでしょう。これらの資料も系統的に展示されています。


 こうした考古遺物による京焼の技術的系譜の解明もさることながら、国宝や重文を含む仁清や乾山などの代表作が数多く展示され、眺めて楽しめる展覧会になっているのは間違いありません。京都国立博物館が10年越しで実施してきた建仁寺の什器調査などを通じて明らかになった個々の名工たちの詳細なデータに裏付けられた展示も見ごたえがあります。初代清水六兵衛(1738―99)や初代高橋道八(1749―1804)、奥田頴川(1753―1811)、青木木米(1767―1833)、欽古堂亀祐(1765―1837)らキラ星のごとき名工から、明治期の輸出を支えた人々まで、京都ならではの豪華な顔ぶれです。海外からの出品も含め280件近くで構成した、これまでになく充実した京焼展と言えるでしょう。


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